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本覺寺

寺史

本覚寺の歴史を辿る

鎌倉時代~戦国時代

本覚寺は1226年に開山されてのち、約八百年の歳月を数えます。今は曹洞宗のお寺ですが、開山当初は臨済宗のお寺でした。
臨済宗として開山されたのは臨済宗の祖、かの栄西禅師と言われております。
しかし、栄西禅師は開山より前の1215年に入滅しておられますので、その遺徳をしたって開山に頂いたものでしょう。

当山はそれからおよそ三百年の間、臨済宗のお寺として歴史を刻んで参りましたが、1510年に転機が訪れます。
すぐ近くの権現山城で起きた「上田蔵人入道の乱」により、本覚寺は兵禍をこうむり、すっかり荒廃してしまったのです。
その後、再興を図るにあたり、小机にある曹洞宗雲松院の陽広元吉禅師(ようこうげんきつぜんじ)を新たに住職として迎えることとなり、1532年、本覚寺は曹洞宗のお寺として生まれ変わりました。この陽広元吉禅師は、曹洞宗としての本覚寺を開かれたという意味で、伝法開山と呼ばれております。

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権現山の合戦「江戸名所図絵」横浜開港資料館所蔵

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栄西禅師

江戸時代

江戸の頃になると、一帯は、東海道五十三次の神奈川宿場町として大変賑わいました。
今日においては本覚寺から広がる景色は横浜駅のビル群ですが、当時は下図のように眼前一面の海でありました。
すぐ近くの台町辺りなどは、神奈川湊を見下ろす景勝の地で、弥二さん喜多さんで有名な『東海道中膝栗毛』にも、「立並ぶ宿や茶店で絶景の海を見ながら二人は一杯ひっかけた」ともあります。

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当時の本覚寺周辺絵図

さて、この神奈川宿には黒薬(くろぐすり)という名物がありました。
これは当時の住職が地蔵菩薩の霊夢のお告げによって作った霊薬と言われ、万病に効くという評判の薬でした。
伊勢参りに江戸見物にと、街道を往来する旅人達は、門前で足を止めてはこの薬を求めていったのではないでしょうか。
また、幕末に横浜が開港されると、神奈川宿の寺院の多くが各国の領事館に接収されてゆきました。本覺寺はアメリカに接収され、3年もの間アメリカ領事館としてその歴史を刻みました。
この頃の伽藍は、現在より相当大きく、本堂や地蔵堂・観音堂・客殿・衆寮・庫裡・鐘楼・総門・中門・裏門などをそなえる大変大きな構えでもありました。

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当時の本堂 横浜開港資料館蔵

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江戸時代の本覚寺伽藍「江戸名所図絵」

明治・大正時代

明治を迎えると、境内は、新橋-横浜間の鉄道用地や道路拡張などで収用され、敷地を狭められていきました。更には火災や関東大震災もあり、大きな変遷が以下のようにありました。

明治32年12月 本堂、庫裡を焼失
明治37年7月  本堂、庫裡を再建
明治42年6月  新たに本堂を建立(施主:原勝院栴操妙馨大姉)
大正12年9月  関東大震災 本堂・鐘楼が倒壊
大正15年   仮本堂・鐘楼を再建

また、明治41年には、認可を得て僧堂(修行道場)を設け、大正・昭和にかけて多くの僧侶を育成致しました。

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僧堂を備えていた頃 奥には横浜の海が見える

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明治に再建された本堂

昭和・平成時代

昭和20年5月29日、横浜大空襲により、本覺寺の堂宇のほとんどは焼かれ、奈良時代の僧、行基の作と伝えられた本尊地蔵菩薩像も灰となり、残った建物は鐘楼堂と山門のみという大被害でした。

以来、狭い仮本堂での苦難の時代を経て、寺院・檀信徒の尽力により昭和46年、
鉄筋コンクリート造りの本堂・客殿・庫裡が再建されました。
更に平成17年、斎場・客殿・庫裏も新たに完成され今日に至っております。

1532年に曹洞宗の寺院として生まれ変わってからおよそ五〇〇年。本覚寺の住職は現住職に至るまで二十七世を数えております。

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現在の本堂

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現在の門前